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2007年9月30日 (日)

織田政権内の暗闘

本能寺の変は、織田政権内の明智光秀と羽柴秀吉の勢力争いを発火点として、信長が息子たち等への権限委譲を進めようとする権力構造の転換時に起きた――『秀吉神話をくつがえす』(藤田達生・著、講談社現代新書)第二章「本能寺の変」からメモ。

(光秀と秀吉の)二人の争いはつまるところ、織田軍団が本格的に開始する西国平定戦における司令官人事をめぐり、どちらが優位に立つかを競うものであった。
秀吉と光秀の派閥抗争の基底には、四国領有とりわけ阿波・讃岐をめぐる長宗我部氏と三好氏との対立があった。その激化が、最有力重臣の座をめぐる二人の抗争をさらに深刻化していった。

藤田先生によれば、天正10年5月7日付で信長が、三男の信孝を讃岐国主に、また三好康長を阿波国主にすることを定め、四国政策の中心から光秀-長宗我部ラインが排除されたのも、秀吉が光秀に対して仕掛けた派閥抗争の結果であるとされる。

天下統一が目前に迫ってきた時期から、信長の政権運営を補佐するブレーンの顔ぶれに変化が現れた。
信長は機内を統一する過程で、岐阜と京都を結ぶ近江の支配を重視した。ここには光秀をはじめ秀吉、柴田勝家、丹羽長秀らの重臣を配置していた。だが、信長が全国的に版図を拡大する過程で、彼らは各方面軍の司令官として最前線に派遣されていく。そして、没収した近畿やその周辺地域には有能な側近たちを取り立てて配置し、政権の中枢に位置づける。重臣層にはさらに国替を強制して、拡大した織田領の最前線を守備させる。
これは、青年期を迎え成長しつつあった一門・近習(きんじゅう、信長の旗本)たちが強権を掌握し、光秀ら政権中枢にあった老臣たちが実質的に退陣すること、すなわち織田政権の世代交代を意味していた。

信長の新たな国家構想を察知した秀吉は、信長の五男秀勝を養子としたほか、一門・近習たちと良好な関係を築いて生き残りを画策していたのである。
こうしたなかで筆頭重臣の光秀は、畿内支配をめぐっては一門・近習と競合する関係にあり、西国支配をめぐっては秀吉との競争に敗北した。改革断行の被害をもっともうける立場にあったといってよい。

・・・ここから、藤田先生は、足利義昭から光秀に働きかけがあって、信長の将軍任官問題や、信孝を大将とする四国攻めの開始予定日も絡めて、天正10年6月2日に必然的にクーデターが行われたとしている。つまり「単独実行説」を否定するのだが、とりあえず光秀と秀吉の勢力争い、織田権力の世代交代で、光秀の心理が謀叛に傾いていった背景は充分理解できる。

昨年の『信長は謀略で殺されたのか』、今年春の『誰が信長を殺したのか』に続いて、この本により、今後の本能寺の変の理解の方向(政権末期の織田権力内の分析と関連付ける)が、かなりはっきりしてきたように思う。

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