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2007年7月 8日 (日)

家康の悩みの種は家臣団?

徳川軍が武田軍に大敗した三方ヶ原の合戦で、家康が戦いを挑まざるを得なかった理由は、家臣からの「プレッシャー」だったのかも知れない。『歴史街道』8月号の記事(歴史研究家の河合敦が執筆)からメモ。

そもそも自軍に倍する大軍に挑んだ家康の判断は尋常とは思えない。武田軍2万5千に対し、家康方は織田信長の援軍を入れてもわずかに1万1千。すなわち、はじめから勝算のない無謀な戦いだった。にもかかわらず、なにゆえ家康は城を出て戦う決断を下したのか。

これまで三河武士団は、家康に忠節を尽くした「武士の鑑」であるかのように伝えられてきた。しかし、それは大きな間違いである。家康の譜代衆は、実はとんでもない「不良家臣団」だったのである。

(桶狭間の戦いの後)家康は、今川氏と断って信長と結び、三河の支配に乗り出した。ところが、もともと三河は家康の祖父清康が数年間だけ統一支配を行なったに過ぎず、三河武士が心底、家康に心服していたわけではない。

三方ヶ原合戦でも、敗戦が確実になると、本多忠勝と並んで「徳川四天王」の一人に挙げられる榊原康政をはじめ、多くの譜代家臣が浜松城へ戻らず、なんとそのまま他所へ遁走してしまっている(『三河物語』『松平記』)。また、何を思ったのか、家康より先に浜松城へ逃げ帰った小栗忠蔵は、「殿は討ち死した」(『三河物語』)と城中に触れ回り、味方を絶望のどん底に陥れた。さらに、譜代の大久保忠世などは、家康が恐怖のあまり脱糞して戻ってくると、大声でゲラゲラ笑う始末だった。

もし、家康がこうした素行のよくない連中のまえで、武田の大軍と戦わずして尻尾を巻いて城中で震えていたら、きっと彼らにさえ見限られたことだろう。つまり、家康は家の存亡をかけ、あえて出撃するほかすべはなかったのである。

・・・三河武士というと、「団結」のイメージが強いだけに、かなり異色の説であります。これが真実だとすれば、徳川家康という人はホントに苦労の多い人生を送ってますなあ。

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