« バブルの遠い約束 | トップページ | 「3びきのくま」展 »

2007年6月 9日 (土)

懐かしのスキゾ・キッズ

〈ポストモダン〉とは何だったのか』(本上まもる・著、PHP新書)の著者は1970年生まれ。80年代のポストモダン・ブームをリアルタイムでは受け止めていないと思われる。そういう若い人がポストモダンをどう論じているのかと思って読んでみたら、全体的に割りとオーソドックスな構えだったので、少々物足りない感じがした。

著者は、80年代前半に『構造と力』が10万部以上も売れた理由はよくわからない、としながらも、時代の空気は知的なものとポップなものの融合を目指していた、と記す。
自分の記憶では、浅田彰にははっきりしたスタイルがあったと思う。思想という難解で重くて深刻なものを、スピードと強度を備えた軽やかな文体により明快なチャートとして提示してみせたこと。それが時代の空気を表していたのかどうかは別にしても、読者の範囲を大きく広げるパワーになったのだと思われる。
浅田に比べると、東浩紀はテクニカルな作家という印象で(著者は絶賛しているが)、その影響力は広がりには欠けていたと思う(一般人が、デリダやラカンをより深く理解してどうする?)。今の東がオタク文化評論家みたいになっているのも、もともと限定的な場所で才能を発揮するタイプなんだろうな、という感じ。

とりあえず本書の結論部分をみると、ポストモダンの高度大衆情報化資本主義社会における4つの人格類型が提示されている。スキゾフレニー、パラノイア、ニューロティック、動物である。哲学的形象で言えばスキゾはニーチェ的超人、パラノはヘーゲル的主人、ニューロはハイデガー的世人、動物はニーチェ的末人に当たる。これらのうち最も対立的に示される「スキゾ」と「動物」についてメモしてみる。

「動物」とは、情報テクノロジーに囲い込まれたなかで、ただそのときの欲求にしたがって、「ヤりたいときにヤる」だけの人格類型のことである。
「動物」は「超越」や「崇高」、「不可能なもの」等について考えることはなく、そもそも世界観としての体系的表象を立てることができない。表象を立てないということは理念がないということであり、理念がないということはもはや人間ではないということに等しい。その場その場
での刺激に対して、そのつど反応しているだけだ。

「スキゾ」は超越への志向を持ちながら、もはや全体性を表象しえないことを承知している。超越的なものは実体としては存在しないが、体系的世界観の構築自体を放棄するわけではない。体系は築かれるが、ただちに破壊される。スキゾの世界観はこうしたダイナミックな破壊と創造のプロセスとしてある。構造としてきわめて不安定であるが、変化には対応しやすい。
「スキゾ」とは絶えざる解体と統合のプロセスを生きることだ。両義性あるいは分裂情況そのものを生きること。自己同一性を解体しつつ、変化していくことだ。

「ポストモダン思想はスキゾの革命思想であったのに、動物の現状肯定になってしまった」と現状を憂える著者は、「西洋哲学史の総体を引き受けたうえで、批判的に乗り越え、近代の理念の徹底のうちに近代の限界を乗り越えようとする」ポストモダン思想の地平を再度確認しなければならない、と訴える。

ポストモダンはただのブームだったのか、あるいはそれは速やかに社会の中に織り込まれた(価値相対主義として?)ということなのか。いつのまにか世の中は、「近代の限界を乗り越える」作業無しに、グダグダに「ポストモダン」化していて、上記のポストモダン思想の地平そのものが無用になってしまったのかも知れないが。

|

« バブルの遠い約束 | トップページ | 「3びきのくま」展 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/174032/6713943

この記事へのトラックバック一覧です: 懐かしのスキゾ・キッズ:

« バブルの遠い約束 | トップページ | 「3びきのくま」展 »