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2007年5月30日 (水)

関ヶ原と「明智光秀」

あまり因縁話の類は自分の趣味ではないけれど、関ヶ原合戦に「明智光秀」の力が働いていたのかも、という話が『関ヶ原 誰が大合戦を仕掛けたか』(武光誠・著、PHP新書)に書かれている。

関ヶ原合戦の当日、家康の本営の家康のすぐ前に南光坊天海という僧侶が控えていた。この天海は、家康の相談役をつとめた怪僧として知られる。じつは、天海は明智光秀だという俗説がある。

関ヶ原の戦場には、光秀と深い関わりをもつ二人の人物がいた。小早川秀秋の家老、稲葉正成まさなりと、3万3000石の大名、脇坂安治わきざかやすはるである。

光秀の妹の子(甥)に、斎藤利三としみつという猛将がいる。この利三は、光秀の家老をつとめ山崎の戦いで奮戦したあと、秀吉に処刑されている。
斎藤利三の娘が、のちに春日局になるお福で、お福の夫が稲葉正成だ。天海は、このお福を通じて稲葉正成を動かし、小早川秀秋を裏切らせようとしたらしい。正成はこのとき小早川家の筆頭家老で、主君にかわって家中を動かし得る立場にあった。

脇坂安治は、近江国の浅井郡小谷の出で浪人であったところを光秀に見込まれて光秀の近臣になった人物である。さらに脇坂についで西軍を裏切った朽木元綱と小川祐忠も、光秀の元部下だった。

稲葉正成と脇坂安治が、光秀に心を寄せていたことは確かである。天海が光秀でなかったとしても、光秀に思い入れのあるかれらが豊臣政権がまさに倒れようとするときに、光秀の仇討ちとして反豊臣の動きをとることは十分あり得る。

うーん、因果は巡る風車?・・・ここに、西軍の人質となることを拒んで命を捨てた細川ガラシャ(光秀の娘)も加えると、死せる明智光秀の「影響力」が、東軍有利の流れを作るのにかなり寄与したように思えてくる。さすがに天海が光秀その人というのは信じ難いけど、あるいは光秀と関係の深い人物だったのかも知れない。

「光秀のチカラ」はともかく、同書が示すように、「反石田三成」で東軍は一致団結していたのに対し、西軍は思惑がバラバラだった。『敗者から見た関ヶ原合戦』(三池純正・著、洋泉社新書y)によれば、三成は用意周到な計画を立てて挙兵し、十分な勝算をもって関ヶ原で東軍を迎え撃ったとされるが、結局は西軍の武将たちの心を束ねることができなかったために、練り上げられた戦略も有効に機能しなかったものと思われる。

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