2018年10月28日 (日)

フェルメール展、人気

東京・上野の森美術館で「フェルメール展」を開催中。フェルメールの現存作品35点のうち9点が集結、同時代のオランダ絵画も約40点を展示。10月5日の初日から3週間で入場者数10万人を突破する盛況となっている。

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自分も東京に用事を作って上野に足を運んでみた。チケットは日時指定の予約という販売方法ではあるけれど、日曜日の午後でもあり、入場開始時間には行列が出来てるし、館内に入ってみれば「混んでる」のひとこと。入場者数そのものを制限しているわけでもない感じ。

ちょうど一年前、自分はここで「怖い絵展」を見たなあ。あれもすごい人気で、連日入場待ちの長い行列ができていたらしい。
絵を見る日本人はとにかく熱心だなあと感心する。

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2018年10月24日 (水)

桃配山と笹尾山

先週末、垂井から関ヶ原まで歩くJR東海さわやかウォーキングに参加。コースのポイントとなっていた徳川家康陣(桃配山)と、石田三成陣(笹尾山)を久々に訪ねた。(写真上は桃配山、下が笹尾山。撮影日2018年10月20日)Photo

Photo_2 最近は関ヶ原の戦いを巡る新説があれこれ取り沙汰されている中で、それぞれの陣地に立つと、関ヶ原の決戦当日、おそらくここには家康も三成もいなかったんだろうな~と妙な感慨を覚えてしまう。

実際にはどこにいたかというと、高橋陽介氏の説に倣えば、家康は決戦の前日に到着した大垣の北、美濃赤坂の岡山という場所に決戦当日も留まっていたであろうし、三成は松尾山の麓にある藤下地区の自害峰に布陣していた、ということになる。

高橋氏や白峰旬氏の説を参照しながら、自分なりに関ヶ原の戦いの史実をイメージしてみると・・・慶長5年9月14日昼、西軍(宇喜多・石田・島津)の籠る大垣城の北、美濃赤坂の東軍陣地に徳川家康軍が到着。大垣城の西、南宮山にいた毛利勢は、家康が到来するやいなや、吉川広家主導で東軍と和睦(事実上の降伏)した。家康軍は引き続き赤坂に留まり、南宮山の毛利に睨みを利かす。やはり同日昼、関ヶ原を見下ろす松尾山に小早川秀秋軍が布陣。小早川は東軍に付くと見た西軍は、毛利の降伏を知らないまま、夜間に大垣城を出て移動開始。西軍を追って、東軍の先手勢(福島、黒田)も関ヶ原に向かう。翌15日未明に西軍は松尾山の麓、山中・藤下地区に着陣、小早川の動きを牽制しようとした。しかし早朝、関ヶ原で警戒行動中の大谷吉継隊を、福島、黒田の軍勢が襲う。同時に小早川軍も松尾山を駆け下り戦闘に参加、大谷隊は全滅。東軍はさらに、山中・藤下の西軍目がけて猛攻を加え、これを崩壊させた。

・・・という感じでしょうか。BS番組で乃至政彦氏が「物語と史実の両立」を語っていたように、これからの関ヶ原は史実を追求しつつ物語も排除しない姿勢で楽しむのが良いかな。

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2018年10月21日 (日)

豊臣武将の駿府城、発掘

駿府城と言えば、徳川家康が晩年を過ごした「大御所」の城として知られているわけだが、その天守台の発掘調査において、家康時代の前の、豊臣秀吉配下の武将・中村一氏時代の天守台が発見された。この土日に現場が公開されると聞いて、本日行ってみました。

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石垣はいわゆる野面積み。写真の奥の方、天守台の部分で調査員の方が、集まった見学者に説明をしている。
天守台の大きさは33m×37m。徳川の天守台が61m×68mなので、その3割程度の広さではあるが、金箔の瓦が大量に見つかっており、豪華絢爛な造りの城だったらしい。
大坂城も豊臣氏の滅亡後に、徳川が当時の城跡を埋めた上に再建したわけで、そのパターンを既に駿府城でやっていたことになる。

今回は発表直後の特別公開。今後は見学路の整備や案内板の作成を行い、11月22日木曜日から通常公開を始める。金箔瓦も展示予定とのこと。

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2018年10月20日 (土)

三英傑、マナーポスターに

最近、名古屋の地下鉄で見かけるのが写真のポスター。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の「三英傑」が社内マナーを訴える、名古屋市交通局の広告である。今日は、社内吊りその他すべてがこのマナー広告という電車に乗り合わせてびっくりした。(笑)

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信長は「混むならばまわりに気づかえそのリュック」で、「たーぎゃーにしなかんゾ たぁーけモンがー」と怒り爆発。
秀吉は「歩くならしまっておこうスマートフォン」で、「ところかまわずはダチかんわぁ」と戯けるように嘆いてみせる。
家康は「ゆずるなら迷わずゆずろう優先席」で、「ぜったゃあゆずったれせんわ!」と力む若き日の自らの画像(例の「しかみ」像が元ネタと思われる)を前に、「でぇえらぁ若かったもんでかんわ・・・」と反省口調。

なかなかベタに名古屋っぽいのも悪くないな。

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2018年8月17日 (金)

『大坂堂島米市場』

大坂堂島米市場』(高槻泰郎・著、講談社現代新書)を読んで、学んだことなどを以下に書いてみる。

17世紀の半ばに大坂で形成された米市は、ごく初期の段階から米そのものを売買する市場ではなくなり、手形を売買する市場になっていた。大名の蔵屋敷から米を落札した者は、代銀(=代金)を払って米の引換券である「米手形」を受け取る。落札者はこの手形を、米市で第三者に転売していた。一方で大名は実際の米の在庫量以上に米手形を発行して、米市で資金調達を行っていた。代銀の一部の支払いで発行される米手形の売買は、やがて代銀の全額支払い後に発行される「米切手」の売買に移行。この正米商い(しょうまいあきない)にほぼ並行して、一種の先物取引である帳合米商い(ちょうあいまいあきない)17世紀末頃に現われる。この取引では現金と米切手を遣り取りしない。まず自由に売りと買いの約束を取り交わす。同時に売り(買い)と反対の買い(売り)の約束も取り交わして、帳簿上だけで売りと買いを付き合わせる。満期日までに反対売買を行い、差金決済により取引は終了する。この取引は、現代の日経225先物やTOPIX先物のような株価指数先物取引に近いものだ。


堂島米市場のことをよく知らない人々から見ると、取引の様子は数百人が寄り集まって喧嘩をしているようであり、そこで飛び交う言葉も、訳が分からなかったと伝わる。この辺の感じは、立会場があった頃の証券取引所の様子の記憶がある者には、似たようなものなんだなと思われるところだ。堂島米市場の正米商いは約30の銘柄を売買した。これに対して、帳合米商いでは「立物米(たてものまい)」を取引の対象とした。立物米とは、年間を三期に区切った取引期間ごとに、大量に取引される銘柄の中から選び出される、名目上の銘柄である。帳合米商いでは、帳簿上だけで取引する(実体のない)銘柄である立物米を売買し、定められた満期日までに売りと買いの注文を相殺する。米切手は基本的に米との交換を約束する証券であるから、米の作柄がその価格に大きく影響した。江戸時代の人々も、米切手の価格変動をヘッジする手段として、先物取引を利用したということである。


大名は資金を調達するため、蔵にない米についても米切手を発行していた。このため米切手が過剰に発行されると、市場における信用不安を惹起し、米切手の価格下落を招く可能性があった。当時、米との交換が延期ないし拒否される米切手のことを「空米切手(からまいきって)」と呼んだ。18世紀中後期にかけて、江戸幕府は空米切手問題に対処するため、米切手の統制策を立て続けに打ち出す。宝暦11(1761)12月に発令された、空米切手停止令(ちょうじれい)により、「全ての米切手は、たとえ蔵米の裏付けなく発行されたものであっても、蔵米の裏付けのある米切手として処理されねばならない」という原則が確立したという。


「世界最初の先物市場」である堂島米市場の仕組みと、それを考え出した江戸時代の大坂商人、そして市場の信用秩序維持を図る江戸幕府、いずれについても驚き感心するばかりだ。

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2018年8月13日 (月)

『テンプル騎士団』

テンプル騎士団』(佐藤賢一・著、集英社新書)から、学んだこと考えたことを以下に書いてみる。

 12世紀初め、十字軍が奪還した聖地エルサレムで、ユーグ・ドゥ・パイヤンとゴドフロワ・ドゥ・サントメールという二人の騎士が始めた巡礼路の警備・巡礼者の保護活動は、やがてキリスト教世界の評判を呼び、1128114日フランスのトロワで開かれた教会会議において騎士修道会「キリストとソロモン神殿の貧しき戦士たち」、いわゆる「テンプル騎士団」が正式に発足する。中世ヨーロッパの三身分(祈る人:聖職者や修道士、戦う人:貴族や騎士、働く人:農民や町人)から見れば、祈る人と戦う人が合体した修道騎士は超の付く特別な身分であり、十字軍という特殊な時代背景抜きにはありえない存在だった。


 イスラム教徒との戦いにおいて、テンプル騎士団は勇猛な戦いぶりを見せつける。なぜ強いのか。神のために死を恐れず戦う「殉教」精神もあるだろうが、修道士は生活の中でまずエゴの克服を求められる。修道会は元々組織がしっかりしており、上意下達の命令系統も明確である。集団行動に適した人々が、よく整えられた組織で戦う。強いのも当然といえる。


ヨーロッパ初の「常備軍」と見ることができるテンプル騎士団。その活動を支える「軍資金」となっていたのは、キリスト教徒からの寄付寄進である。この寄付寄進、特に土地を管理運営するために、「支部」がフランスを中心にヨーロッパ全土に置かれる。十字軍運動がピークを過ぎて寄付寄進熱が冷めると、テンプル騎士団は積極的な支部経営に乗り出していく。農地の開発・運営、物資の運搬・販売、金貸し等々、支部を拠点に不動産業、物流業、金融業と、事業を次々に展開拡大していく姿は、まさに「企業体」というほかない。調達資金(寄付寄進)は返済不要である一方、出資者(一般信徒)への利益還元も求められない。テンプル騎士団は、いわば株主のいない株式会社として、組織の維持拡大のため、収益追求の道をひた走る。こうしてヨーロッパ中に事業活動のネットワークを張り巡らしたテンプル騎士団は、軍隊であり事業体であり銀行でもあるという超国家的組織へと変貌を遂げた。


無敵の存在感を示すテンプル騎士団。しかし謀略の動きが秘かに進行していた。当時のフランス王フィリップ4世は、自らの権勢伸張を目指して、まず教皇との権力闘争に勝利する(1303年、アナーニ事件)。王は次の標的として、テンプル騎士団に狙いを定めた。13071013日の金曜日、パリを始めフランス全土でテンプル騎士団の一斉逮捕が行われる。約700の支部で推計600人の騎士が拘束された。嫌疑は異端の罪。以降、財産は差し押さえられ、騎士50人以上が処刑。テンプル騎士団は消滅への道を辿ることになる。


12世紀に生まれ、やがて超国家的ネットワーク組織へと成長し、14世紀に入ると呆気なく消え去ったテンプル騎士団。それは中世ヨーロッパに咲いた巨大な徒花にも思われる。

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2018年8月12日 (日)

『世界史序説』

世界史序説 アジア史から一望する』(岡本隆司・著、ちくま新書)から学んだこと、考えたことなどを以下に書いてみる。

最古の文明であるオリエント文明は東西に拡大伝播。西ではギリシア・ローマ文明を、東ではインド文明、さらに黄河文明を生み出した。しかし4世紀から5世紀になると、地球規模の寒冷化を背景とした異種族・遊牧民の移動・攻撃により、西ローマ帝国、漢王朝が滅亡。この危機の時代に、オリエント・南アジアから、キリスト教・仏教・イスラームの「世界宗教」が生まれて東西に広まる。5世紀から6世紀、東ローマ帝国とササン朝ペルシアの両雄が並び立つ、その間隙を縫うように現われたイスラームは、やがて中東から北アフリカ、イベリア半島を支配するに至った。イスラームの地中海制覇とは、東西に分かれていたオリエントの、イスラームによる再統一であると見ることができる。


9世紀以降、アジアの東と西で、唐とイスラームによる統合が終焉。気候の温暖化により遊牧民の活動が活発化する。13世紀初めに生まれたモンゴル国は、その強大な軍事力により、ほぼユーラシア大陸全域に及ぶ大帝国へと成長。あわせて遊牧と農耕、移動と定住を有機的・安定的に結合させる仕組みを構築した。さらに13世紀後半には、広域の商業化、銀だての財政経済、流通過程からの徴税などを柱とした経済国家へと変貌した。


14世紀の後半、気候の寒冷化に伴い、ヨーロッパのペスト流行など天災疾病が世界的規模で発生、蔓延。ユーラシアではモンゴル政権が崩壊、瓦解した。次に台頭したトルコ系のオスマン帝国は、ローマとイスラームとモンゴルを一身に継承する存在として、アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸にまたがる一大勢力となった。東アジアでも、満州人を中心にモンゴル人・漢人が結集した清朝が登場。ここにアジア的政治社会構造は、ほぼ完成する。軍事政治を担う遊牧起源の支配者と、経済文化を担う在地定住民の共同体を、双方の事情に通じたエリートがつなぐという統治スタイルの下に、多様な言語・宗教・慣習を持つ人々が共生共存する。これが、草原・遊牧と農耕・定住が交錯するアジアにおいて、平和な共存と円滑な政治を実現する合理的な方法だった。


そして16世紀の大航海時代。世界史を動かす主役はヨーロッパへと移り、世界史は大きく転回する。ルネサンス華やかなイタリアの繁栄を最後に、地中海から大西洋に交易の舞台は移り、海軍国イギリスが産業革命も起こして「大英帝国」を築き上げる。以後は世界が一体化する近現代史、帝国主義の時代までほぼ一直線の道のりになる。


近代はまさしく西欧中心の時代だが、近代以前は西洋を中心に世界史を考える必要はないのだと了解する。日本とヨーロッパは、遊牧の要素を欠いた農業生産優位の一元的社会という共通性があるという指摘を始め、様々な観点を得られる、繰り返し読みたい一冊。

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2018年8月11日 (土)

うなぎの「イチビキ」

名古屋でうなぎというと、「イチビキ」が人気店らしい。と聞いて、一回行ってみるかと思って調べたら、朝10時からお昼の分の整理券を配る(開店は11時30分)という。で、納屋橋近くにあるお店に先月数回、10時台に行ってみたら、毎回「整理券配布終了」という目に遭った。こりゃあ10時にはすぐなくなるんだなと了解して、本日は9時15分頃にお店の前に到着。既に20人程が並んでいた。やはりみんな早くから来るんだなと納得しつつ、列に加わった。

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10時になり整理券を渡される。24番、12時30分の予約だ。もちろん自分の後ろにも人の列。やはり10時に整理券はすべて配布終了という状況だった。
入店まで2時間半の間、QBでヘアカットしたり、本屋に行ったりして時間を潰す。予約時間の10分位前にお店に入った。お店からは白煙がもうもうと出ていて、辺りにはうなぎを焼く匂いが漂う。
注文したのはうな丼2,500円。今日も暑いので、ビールの小瓶もいただく。ちなみに上丼は3,000円、特上丼は3,800円。焼くのに時間がかかるとも聞いていたが、注文してから10分程で出てきた。なるほど肉厚のうなぎである。食べ応えあり。

とりあえず「イチビキ」のうなぎ、体験して満足しました。次は上丼や特上丼を食べてみる・・・かどうかは分からないが、行く時は9時台から並ばないとアカンですね。

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2018年8月 5日 (日)

スパイシーマサラ(京都駅)

今日は所用で京都まで出かけた。京都に行くと食べたくなるのが、駅の中にある「スパイシーマサラ」のカレーライスだ。いわゆるスタンドカレー店で、新幹線乗り場から在来線連絡口を抜けてすぐの、少し奥まったところにある。この入口の反対側(改札の外)からも、入れるようになっている。

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京都まで行ってカレーを食べるのもアホみたいだが、京都に行くと何となく食べてしまう。この手のカレー屋さんとしては、かなり良い味だと思っている。東京の新宿とかにあるC&Cよりも好きな味である。

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2018年8月 4日 (土)

「読書感想文」で思考力アップ

東洋経済オンライン8月3日配信記事「東大生が断言!「読書感想文」の凄すぎる効能」から、以下にメモする。この記事の執筆者である東大3年生の西岡壱誠さんは、自らの読書法をまとめた本も出している。

みなさんは、夏休みの宿題によくある「読書感想文」は好きでしたか?
実は、「読んだ本の感想を言語化してみる」というのは、とても学習効果の高いことなのです。

読書感想文の1番のポイントは、「アウトプットである」ということです。
読書という行為は「インプット」でしかありません。記憶に残し、次に活かせるようにするためには、「アウトプット」が必要なんです。
実は人間の脳は、「アウトプット」したほうが暗記できるように作られていると言われていま
す。
そして、「感想を書く」という行為はアウトプットにほかなりません。
インプットした内容を頭の中で整理して言語化するのが「感想を書く」ということです。
「なんとなくよかった」ではなく「ここが、こういう点で、こんなふうによかった」と言語化することで、本の内容を忘れなくなるのです。

さらに、読書感想文のために本を読むことで、「アウトプットが前提のインプット」をすることができます。
「あとで感想を書かなきゃ」と考えていると、「ただ漫然と読んで何も考えない読書」から脱して、「何かを発信することを前提とした、何かを考えながらの読書」をすることができるようになります。いつもの受け身的な本の読み方から、能動的な本の読み方へと読書の質が変わるのです。

・・・全くその通りだと思う。実は今、たまたま歴史をテーマとした新書の新刊を読んで、A4一枚の読書記録を作ることをやっているので、ここで言われていることは実感として分かる。「書くために読む」というのは、読書を非常に意識的な行為にする、ということなんだな。

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