2024年8月25日 (日)

ベビーメタル・ザ・ムービー

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ベビーメタルの沖縄ライブの映像化作品「BABYMETAL LEGEND-43 THE MOVIE」(43はシーサーと読んでる)を観た。やっぱり映画館で観ると、実際のライブに近い臨場感が得られる(いわゆる「応援上映」も設定されている)し、90分間圧倒されっぱなしというか、とにかくロック・ショーとしては完璧という感じ。音・光・色の洪水の中で、それこそ「唯一無二」の世界観というやつが極限まで展開されて、ライブ会場が熱狂の渦に巻き込まれていく有り様は戦慄的とすら言える。そのライブの破壊力は、その辺のヘビメタバンドを遥かに凌駕するものであり、「女性メタルダンス・ユニット」という、そんな生易しい定義に収まるものとは到底思えない。

オープニングは「BABYMETAL DEATH」。他にも「ギミチョコ!!」「ヘドバンギャー!!」など初期の曲も披露されていたが、「イジメ、ダメ、ゼッタイ」はやらなかった。さすがにこれは、もうやらないということか。ちょっと聴きたかった気もするが。(苦笑)

一時、正式メンバーは二人になっていたが、昨年2023年から三人に戻っている。昔は、メタル+アイドルというコンセプトとか、ベビーという名前とか、ダンスの激しさとか、これだとメンバーがとにかく若い人でないとやれない感じがして、そんなに長く続けてやるもんじゃないのかな、と思っていたが、「世界征服」開始から既に10年以上が過ぎて、やっぱり「唯一無二」という言葉を使うしかないというか、「ベビーメタル」というバンド=ジャンルを確立しているという印象だ。

そうなると、ボーカルのクールビューティなスーメタルさんはまだ26歳ということだし、ベビーメタル、まだまだ活躍は続きそうである。

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2024年8月24日 (土)

模擬原爆着弾の痕跡を追う

太平洋戦争末期、アメリカ軍は原爆投下の訓練として「模擬原爆」を日本各地に落としていた。昨日23日付日経新聞記事(模擬原爆の着弾どこに?)からメモする。

模擬原爆は長崎に投下された原爆「ファットマン」(重さ約4.5トン)とほぼ同じ形状。ずんぐりと丸みを帯びた形、オレンジ色の塗装から「パンプキン」と呼ばれ、通常火薬が詰め込まれていた。日本への原爆投下を見据え、担当する米軍の搭乗員らに実戦経験を積ませるため使用されたとされる。

終戦直前の1945年7月20日〜8月14日、福島県から愛媛県まで全国18都府県に計49発が落とされた。犠牲者は400人以上に上り、東京駅の八重洲口周辺に着弾したことも判明している。

極秘の訓練だったため、戦後も長らく詳細が知られていなかったが、1991年に愛知県の市民団体が国立国会図書館所蔵の米軍資料から投下場所の一覧表と地図を発見。各地の専門家らによる調査の結果、大部分の着弾地点が特定された。

だが神戸市、福島県いわき市、徳島県に投下されたとされる計3発については写真や証言が残っておらず、具体的な落下地点は不明のままだ。

「神戸のような大都市に着弾すれば被害に関する証拠が残っているはず。なぜ特定できないのか」。神戸大大学院生の西岡孔貴さん(27)は疑問を抱き、2022年から神戸に落とされた模擬原爆について調査を始めた。

神戸市には1945年7月24日に計4発の模擬原爆が投下された。このうち着弾地点が判明していないのは、同市の中心部近くにあった神戸製鋼所を狙った1発。西岡さんが神戸の空襲に関する史料を調べたところ、地元の警防団副団長だった男性の日記に気になる記述を見つけた。「製鋼所付近及び北方山中に投弾」。日付は7月24日。当時、米軍が撮影した航空写真と照合すると、確かに神戸製鋼所から約2キロの距離にある六甲山系の摩耶山中に着弾跡のようなものを確認できた。全国の模擬原爆を長年研究する「空襲・戦災を記録する会」の工藤洋三事務局長(74)=山口県周南市=に協力を求め、2023年12月に金属探知機で現地調査したところ、地表や地中から長さ約5〜22センチの金属片8個を見つけた。

西岡さんらは今年4月に「パンプキン爆弾を調査する会」を結成し、本格的な調査に乗り出した。「戦後79年となり、原爆投下につながった模擬原爆の歴史が忘れ去られないように記録を残したい」と話している。

・・・アメリカは原爆を落とす練習を実地に繰り返していたのかと思うと、やっぱり日本はもう少し早く降伏しとけば良かったのにと無念を覚えるばかりだ。

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2024年8月21日 (水)

岸田首相の大胆不敵

本日付日経新聞オピニオン面、フィナンシャルタイムズのコラム(岸田首相、「大胆さ」の遺産)からメモする。

岸田氏の時代は、その任期の短さと不人気ぶりから、あっという間に人々の記憶から消え去ってしまうかもしれない。しかし、同氏は1980年代のバブル期以来、間違いなく日本にとって最も大きな変化をもたらした3年間を導いた。

岸田氏と緊密に仕事をした人々は、同氏は主義主張に縛られない人物として驚くほど大胆不敵だったと評している。ある政府高官は、多くの首相ができなかったにもかかわらず、岸田氏は財務省を説得しての減税を実現させたと指摘している。

おそらく、岸田氏の大胆さが顕著に表れたのは、外交と防衛の分野だった。防衛予算の国内総生産(GDP)に占める割合を倍増させたことは、その規模だけでなく、国民の反発がなかったという点でも、注目すべき政治的偉業だった。世界における日本の立場は歴史的な変化を遂げた。欧州連合(EU)や北大西洋条約機構(NATO)との関係強化をより積極的に進め、以前はぎくしゃくしていた韓国との関係改善にも貢献した。

退任する岸田氏に対する辛辣な批判は多く、彼を「フォレスト・ガンプ」(編集注、ウィンストン・グルーム作の小説の主人公の名前。米国の激動の時代を駆け抜けた誠実な男として描かれた)のような人物として表現したがるかもしれない。つまり、歴史上の偉大な瞬間に、才能や策略ではなく偶然によって主導権を握ったような単純で控えめな参加者ということだ。

しかし、それでは岸田氏の功績を大いに過小評価することになる。後継者が日本の現在の勢いを維持できなければ、その代償は大きなものとなるだろう。

・・・岸田氏が外相を務めた安倍政権では、むしろ安倍首相が外交で前面に出ていた印象があり、むしろ首相になってから岸田氏は広島サミットなど外交的成果を挙げたと言えるのも面白いところだ。

ネット民から「増税メガネ」と揶揄されたりした岸田首相だが、むしろ減税を(無理矢理?)実行し、防衛政策や少子化対策でも財源を明確にしなかったなど、結構ポピュリズム的政治家にも見える。証券業界に身を置く者から見ると、やはり個人向け投資「減税」政策とも言える新NISAの導入は、非常に大きな業績に思えるのだなあ。岸田さんが任命した植田・日銀総裁も、前任者の「異次元緩和」の修正(後始末?)に踏み出したし、岸田時代は後から振り返ると、かなり大きな転換点だったと評価されるかもしれない。

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2024年8月19日 (月)

ウクライナの「バルジ大作戦」

最近、ウクライナがロシアのクルスク州に攻め込んでいる。というニュースを聞くと、往年の戦車ファン、プラモ好きは、どうしてもクルスク戦車戦を思い出してしまう。1943年7月に起きたクルスクの戦いは、独ソ戦のハイライトの一つだ。旧ソ連映画「ヨーロッパの解放」で「再現」された、ティーガ―戦車とT34戦車の対決を覚えている人も多いと思う。

現在のウクライナのハルキウ(ハリコフ)とロシアのクルスクは、1943年春から夏にかけて、独ソ両軍が取ったり取られたりの攻防を繰り広げた激戦地だった。その80年後に同じ大地で、旧ソ連の国同士だったウクライナとロシアが戦っている。現実とは思えないような現実だ。

今回のクルスク攻撃は、いわばウクライナの「バルジ大作戦」みたいな感じがする。「バルジ大作戦」は、ドイツ軍最後の反撃と言われる1944年末のアルデンヌ攻勢を描いた映画で、やはり戦車が大量に登場する。この戦いでは、ドイツ軍が米英軍の不意を突いて大打撃を与えて、有利な講和条件を引き出そうとする。実際、今のウクライナも国境線からロシア側にはみ出す形の突出部(バルジ)を作り、停戦交渉の材料にすることを目論んでいるようだ。そんな感じでクルスクとアルデンヌを重ねて、外野にいる自分は面白がって見ている。

このまま戦線の拡大が続くと、ロシアが国内受けに「特別軍事作戦」とか「対テロ作戦」とか、いつまで言い続けられるのか怪しくなってくる。しかし、これをひとたび国家同士の「戦争」であると認めてしまうと、ロシア国内の動揺も目に見えて大きくなるだろう。

ウクライナもクルスク州侵入が成功したとはいえ、勝利の道筋が見えているわけでもないだろう。当面は兵力を効率的に使って、敵に打撃を与え続けるしかないように見える。

今のところ、戦争の終わりがいつ見えるのか見当もつかない。リーダーのどちらかが暗殺でもされない限り、終わるきっかけすらつかめないような気がする。

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2024年8月18日 (日)

市民派市長VS議会

市民の支持だけを頼りに、市民派市長は議会と闘う。泉房穂元明石市長の『さらば!忖度社会』(宝島社)から、以下にメモする。

私が市民派の市長として改革しようとした時に、市役所の職員とともに私の手を抑え、足を引っ張っていたのは議会の方々でした。彼らの最大の関心事は、サイレントマジョリティの一般市民の生活ではなく、特定の集団への利益誘導や党派の拡大。各議員が特定の集団の利益代表として、〝選択と集中〟どころか、〝継続と拡大〟を主張し続けるわけですから、当然肥大化していくしかない。その意味では、官僚政治と完全に同じ方向に向かっている。前例主義を押し通しつつ財源をできるだけ多く確保しようと動くのが官僚の習性ですから、財務省は税金を増やし、厚労省は保険制度を増設しては保険料の上乗せを繰り返して肥大化し、国民負担を増やしてきたわけです。

議会、とくに地方議会は、それ自体がまさに既得権益化していますから、改革に対する最大の抵抗勢力となっている。一部の集団への利益誘導と自己保身に走り、市民全体にとっての合理的な判断を下そうとしません。ですから、私が明石市長に就任した時も、まさに明石市議会が改革に対する激しい抵抗勢力になっていったわけです。これが、多くの市民派首長が、各地で直面している現実です。

多くの市民派の首長が、役所の職員と仲良くしようとして副市長に相談し、あらゆる改革が先送りにされるのと同様に、議会と手打ちをした結果、改革が骨抜きにされがちなのは、なんとも残念なことです。

市民が味方についていることを信じて、議会には迎合せずに政策転換をしていくべきです。政策さえきちんとしていれば、議会と手打ちしなくても、役所と仲良くしなくても、改革は進めていける。私は自分の明石市長としての12年間でそれを示すことができたと思っています。

・・・国会ならば、議員は「国民の代表」とされているが、それはタテマエで、結局は諸々の集団の利害のために働く人の寄せ集め、というのが現実なのだろう。それでもかつてのように経済成長が自明の時代ならば、成長の果実を分配するために議会は充分機能していたと思われるが、成長の果実が限られてくると、分配を減らすべきところは減らすなど、優先順位を決めなければいけないのに、既得権益を主張されて、なかなか決まらない状態、すなわち議会の機能不全状態に陥りやすいのだろう。とにかく議会も役所も、自分たちの集団の利益を守ろうと動くわけだから、市民派市長には胆力がいるなあ!とつくづく思う。今はSNSはじめネットというツールもあるのだから、サイレントマジョリティの市民も、市長を応援する声を行政に届けないといかんな。

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2024年8月17日 (土)

ルソーの視点で議会を考える

泉房穂元明石市長は、政治学者ルソーを敬愛しているという。新刊『さらば!忖度社会』(宝島社)から、以下にメモする。

私の敬愛する政治学者ルソーは、はるか昔から議会の欺瞞性を鋭く見抜いていました。議会の議員たちは、「社会一般の普遍的正しさ」つまり「一般意志」の代弁者ではない、というのがルソーの考えです。彼らは、自分を選挙で選んでくれた業界や地域を代表しているに過ぎない、と。つまり、国民全体の代表者ではなくて、個別利益の集合体、個別の欲望である「特殊意志」の集合体としての「全体意志」が議会であって、これは社会全体の人々の「一般意志」とはまったく別のものであるとルソーは看破していました。

実際、労働組合、宗教団体、地域、企業の集合体など、それぞれのノイジーマイノリティから送り込まれた議員たちで構成された議会において、多数決によって物事を決めようとしたところで、自分を支持してくれた集団の利益を守る方向に進んでいくに決まっています。

そんな「特殊意志」の集合体に過ぎない「全体意志」に、社会全体のための合理的な判断など期待できるはずもないのです。

一方で、ルソーが理想としたのは議会制民主主義、つまり間接民主主義ではなく、直接民主主義でした。市民が直接首長を選び、首長が権限を行使することで、市民全体にとって共通の利益となること、つまり一般意志が政治に反映されやすくなると考えた。あるいは、大きな方針を決定するには住民投票・国民投票を行う。そうやって直接的に市民が決めていくことで、個別の既得権益に左右されない合理的な一般意志が確立されるのだというルソーの考えに、私は大きく影響を受けています。

何が言いたいかというと、議会制民主主義と直接民主主義、どちらが正しいのか、ということではなく、両方にそれぞれのよさと限界があるのだということ。かつ、議会の果たすべき役割は時代とともに変化しているということです。

・・・民主主義の現状を認識するために、意外と「ルソー」というのは使えるんだなと思った。(苦笑)

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2024年8月16日 (金)

「さきの大戦」

本日付日経新聞社説(「さきの大戦」と呼ぶ意味を考えよう)から、以下にメモする。

私たちは79年前に終わった戦争を「さきの大戦」と呼んでいる。一般には「太平洋戦争」が定着しているが、政府が公式の呼称として定めたものはない。なぜ「さきの大戦」と呼ぶのか、そこから見えるものを考えたい。

大東亜戦争は真珠湾攻撃の数日後に閣議決定された呼称だ。軍部は大東亜新秩序の建設という戦争目的の意味もあると解説した。大東亜新秩序はアジアの植民地解放というより日本の権益確保が実質であり、つまりは侵略だ。実際、大東亜戦争は軍国主義と深く結びついてきたとしてGHQ(連合国軍総司令部)が公文書での使用を禁じた経緯がある。日本の独立でGHQ指令は失効し、使用可能になったが、その後も政府は公文書に使っていない。

代わりに定着したのが「太平洋戦争」だ。太平洋での米国との戦争は本土空襲や沖縄戦、原爆投下の悲劇を生み、多大な犠牲を払った教訓から二度と戦争を繰り返さないという国民感情に結びついた。
ただ太平洋戦争というくくりではこぼれ落ちてしまう戦争がある。中国や東南アジアなどを侵略した加害の歴史がその一つだ。

多面的な戦争をどうみたらよいか。歴史学者で国立公文書館アジア歴史資料センター長の波多野澄雄氏は、さきの大戦は4つの戦争が重なった複合戦争であり、分けて考えるべきだという。

まず1937年に始まった日中戦争である。最も長く戦った戦争だが、日米開戦後の実態はあまり知られていない。次が日米戦争で太平洋戦争として日本人にとってさきの大戦の象徴である。3つめに東南アジアを植民地にしていた英仏蘭との戦争がある。これは結果として東南アジア諸国に独立の道を開いた。最後がソ連との戦争だ。先の3つの戦争が日本による侵略だったのに対し、ソ連から攻め込まれたという点で様相を異にする。

日本人は激戦の太平洋や東南アジアの戦争には詳しいが、ソ連との戦いや日米開戦後の中国戦線の実相はどこまで知っているだろう。戦争をより多面的にみることができれば、それを防ぐ道筋もさまざまな角度から考えられるはずだ。大切なのは、あの戦争をいつまでも「さきの大戦」にしておくことである。

・・・やはり戦争(というか敗戦)の経験というのは、被害の大きさで記憶されるように思う。4つの戦争のうち、人的物的に莫大な損害を被った対米戦(太平洋戦争)の記憶が、一番重くなるのは当然だろう。2番目は戦闘期間は短いながら、現在も残る北方領土問題の起源であるソ連との戦争か。日中戦争は期間が長いにも関わらず、正直よく知らないのは、攻め込んだ側であるから、という理由も大きいのは否めない。戦争を充分に理解するためには、被害だけでなく加害の記憶も掘り起こす必要がある。

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2024年8月15日 (木)

終戦という「ガラガラポン」

世間とズレちゃうのはしょうがない』(PHP文庫)は、養老孟司と伊集院静、親子ほど年の違う二人の対談本。「戦争経験」について語る部分をメモする。

養老:僕は小学生のときに、ガラガラポンをやらされたから。
伊集院:え? それはどういう・・・。
養老:終戦ですよ。それまでは「一億玉砕」「本土決戦」と言われていたのが、戦争が終わったらとたんに「ポン」となくなってしまって、「平和憲法」「マッカーサー万歳」の世の中になってしまった。
伊集院:僕、そのことを前から思っていたんです。自分の親たちの世代にちょっと敵わないなと思うのは、彼らが戦争を経験しているからなんです。親父に「戦争が終わったとき、うれしかったの?」と聞いたら「うれしくなかったことはないんだけど、うれしいとかいう感情じゃなくて、もっとすごいことなんだ」と言うんです。そのとき言われたのは、「おまえ、今まで習ってきた教科書が全部ウソだと言われたらどう思う?」。
養老:そうです。ウソだと言われる以上に、自分で墨をすって、教科書の戦争に関係あるところを全部黒く塗らされたわけだからね。みんなで声を揃えて何度も読んだところですよ。だから理屈じゃないんだよね。感覚ですよ。肉体感覚。
伊集院:そのガラガラポン体験が生きているから、先生には「何かしらそういうことは起こるよ」という覚悟があるんですね。

養老:僕の同世代でも、終戦を迎えた年度にちょっとしたズレがあるだけで感覚はかなり違いますけどね。
伊集院:戦争のガラガラポンの話、もっと聞きたいですね。なんだろう、すごく興味があって、戦争が悲惨だったことは分かるんです。でも「悲惨だった」だけだと、全然実感が湧かない。僕らは「みんなは反対だった戦争を一部の間違った人が始めて、罪のない人が死にました」とか「愚かな大人が起こした戦争が終わって、子どもたちは全員喜びました」とか聞かされるんです。それだと、正しいことが変わった戸惑いとか、微妙なニュアンスとかがよく分からないんですよ。
養老:当時は子どもだから、あまり言葉に出してはしゃべらないよ。でも大人の世界を見ていると、竹やり訓練をやったりバケツリレーをやったりしていた。いくらなんでも若干疑うよ、子ども心にも「これ本気かな」と。頭の上を飛ぶB29が落とした焼夷弾を見ていて、「あれをバケツで消せるのかよ」と思うよね。

・・・昭和ひと桁世代を親に持つ小生も、伊集院氏と同じ感覚を持っている。養老先生は昭和12年生まれなので、戦争の記憶がある世代としては、ほぼ下限という感じがするが、とにかく戦争の終わった後で、世の中の価値観ががらっと変わったという経験を持っている世代であるのは間違いない。自分は、親から戦争の話をあれこれされたという記憶はないが、その経験を前提とした価値観は自分に伝わっていたかも知れないと思う。とにかく20世紀前半を生きた人々に対しては、よくぞあの狂気の時代を生き延びましたという感じで、とても敵わないという思いがあるのは確かだ。

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2024年8月13日 (火)

ブラック・ジャック展

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現在、名古屋の中日ホール(中日ビル6F)で、「ブラック・ジャック展」開催中(8月26日まで、写真は中日ビル地下一階に設けられたフォト・スポット)。東京では昨年秋にやったようだ。昨年2023年は、ブラック・ジャックの連載開始から50周年だった。50年、驚くばかりだ。自分は当時中学生として、この世にいたわけだから、その時から50年も経ったのかと、ただただ驚くしかない。

この機会にと思い立って、ブラック・ジャック全作品(全17巻版)を購入して、読んでいるところ。思い出せば、自分がブラック・ジャックの話で初めて読んだのは、「その子を殺すな!」。超能力者とブラック・ジャックが対決する話だ。これは何しろ「無頭児」の印象が強烈で、何だこのマンガは?という感じだった。ジャンルとして、コミックスのカバーには最初「恐怖コミックス」と印刷されていた覚えがある。それが後に「ヒューマンコミックス」に変わったわけだが、改めて読み返してみると、最初の頃は不気味な話も少なくない。マスコット的な存在であるピノコも、そもそもフランケンシュタイン的な人造人間であるわけだし。不気味だあ。

登場するキャラクターの中で、自分が好きなのはドクター・キリコ。そんなにたくさん出てくるわけではないが、安楽死の専門家として、明らかにブラック・ジャックとはコインの表裏をなす存在。実際に起きる「安楽死」事件(最近では、京都のALS患者殺人)でも、しばしば実行者は「キリコ」を引き合いに出しているくらい、隠れた影響力を感じさせるキャラクターだ。

今回、展覧会を見て、読み切りマンガを毎週連載するというのは、途方もないことだと思ったし、とにかくこんなにも多くの様々なストーリーを生み出す、描き出す能力は驚異的というほかないし、改めてこれ程少年マンガのツボを心得たマンガ家はいないと思った。なので、手塚治虫は天才であると認めるのは吝かではないのだが、しかし好きかと言われるとそうでもないな~という感じ。自分はやっぱり手塚治虫の根本には、深いペシミズムがあると感じていて、火の鳥の未来篇、そしてバンパイヤという作品から、「人類はやり直さないとダメなのではないか」という深い懐疑を受け取った覚えがある。そのぺシミズムは、昭和ヒトケタ生まれ(自分の親世代である)の手塚の戦争体験から来ていると、思われるのである。

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2024年8月12日 (月)

幸福になるためには(山崎元)

経済評論家・山崎元氏の「遺作」である『がんになってわかったお金と人生の本質』(朝日新聞出版社)の第5章(お金より大事なものにどうやって気づくか)から、以下にメモする。

一般に、自分の行動を自分で決めることができる「自己決定性」は幸福を増進するとされる。

お金があれば自由の範囲が拡大する。例えば、個人でもお金があれば、宇宙旅行を体験できるような世の中になった。しかし、人は、宇宙旅行に行った自分を他人に感心して承認して貰いたい生き物でもある。端的に言って、人間は、自分に関して他人による承認を得たことを実感して「幸せ」を感じる。いくらお金があって自由の範囲が広くても、友達も恋人もいないような人生では面白くないし、幸せを実感することが難しい。

必ずしも異性関係の「モテる・モテない」ではなくもう少し広い人間関係を指すことにするが、「モテる」人は幸せだし、「モテない」人は不幸せだ。「お金」、「自由」の外に、「人間関係」の要素が幸福には影響するということだ。

人気(≒モテ)には、たぶん稼ぐ能力と同じかそれ以上に、元々の資質の個人差が大きいだろうが、「人柄を良くする」などの努力で改善ができない訳ではない。

「幸福」を構成するのが「自由」と「人気」だとして、「お金」は両者を手に入れるに当たってポジティブな影響力を持つ要素だ。加えて、お金を得る近道についても考えると、他人に好かれること(人気者になること)が、直接的な幸福感の獲得にも、お金を通じた間接的な幸福感の獲得にも有効であるようだ。

「幸せになるには、他人に好かれるような人になるのが近道だ」という平凡な結論が出た。

・・・承認願望が満たされる機会が多いという意味では、モテる人は「幸せだ」といえるのかもしれない。しかし、山崎氏も指摘するように、「モテ」は個人的資質の差が大きい。また、そうであればモテるための個人的努力にも、自ずと限界があるということになるだろう。

自分は最近、人と何か共有できたと感じられれば、それが幸福(感)というものではないだろうかと考えるようになった。だから、幸せとは、何か人生の目標とするような究極の状態ではなく、日々の生活の中で感じられれば、それでよいものなのだろうと思う。

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