2019年5月23日 (木)

歴史を学ぶ意義

呉座勇一・国際日本文化研究センター助教の語る、歴史を学ぶ意義とは。本日付日経新聞文化面記事(令和の知をひらく)から以下にメモ。

歴史に限らず「唯一絶対の正解があり、そこに必ずたどり着ける」と考える人は多いが、現在の複雑な社会で、簡単に結論の出る問題はない。
ネットを通じ、情報の入手自体は簡単になった。それをいかに分析し、価値あるものを選び出していくか。歴史学の根幹はこの「史料批判」にある。リテラシーを身につけるひとつの手段として、歴史学の研究成果に親しんでもらえたらと思う。

歴史を学ぶ意義は大きく2つある。1つは現代の相対化だ。かつて、いま我々がいる社会とは全く違う仕組みの社会が存在した。異なる常識で動いていた社会を知ることが、我々の価値観を疑ったり「絶対に変えてはいけないものなのか」と問いかけたりするきっかけになる。

もう1つは、社会の仕組みが異なっても変わらない部分を知ること。親子や兄弟の絆、宗教的観念などは、時代を超えて今につながるものがある。この両面を通して、我々はこれからどう生きるべきか、ヒントを引き出せるのではないか。

・・・違う時代の違う国のことを学べば、現代日本社会の価値観を相対的に見ることができる。すると、この社会における支配的な価値観に全面的に付き合う必要などないのだ、ということが了解できるだろう。

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2019年5月21日 (火)

マンガ「イサック」

先の十連休では、何かまとまったことをしておかないといかんな、と考えて、だいぶ前に買ったけど本棚に入れたままだった『ドイツ三十年戦争』(刀水書房)を手に取り、570ページの本をとにかく読んだというか目を通した。で、何となく検索したら、三十年戦争の頃の神聖ローマ帝国を舞台にした「イサック」というマンガがあることを知った。読んでみると、舞台がドイツで主人公が日本人の「鉄砲足軽」という、何とも奇抜なストーリーに感嘆していたところに、ネットニュースで「イサック」の紹介記事が目に付いたのでメモする。(ダイヤモンド・オンライン、5/19発信記事「おとなの漫画評」)

『イサック』(原作・真刈信二、作画・DOUBLE-S)は、大陸欧州を二分して起きた17世紀前半の「三十年戦争」(1618~1648年)に傭兵として参戦した日本の鉄砲鍛冶職人、猪左久(いさく=イサック)の物語である。「月刊アフタヌーン」(講談社)で2017年から連載されている。

原作者の真刈信二はハードボイルドなミステリー作品を数多く生み出しているが、本作は西洋史に題材を得て、そこに同時代の日本人鉄砲鍛冶で狙撃手でもある青年を放り込むというユニークなストーリーを展開している。

プロテスタントとカトリックが神聖ローマ帝国、すなわちドイツ・オーストリア圏を南北に二分して戦った「三十年戦争」の発端の年は、プロテスタントのプファルツ選帝侯フリードリヒ5世がボヘミア王に選出された1618年である。プロテスタントのボヘミアの貴族たちが神聖ローマ帝国のおひざ元で反旗を掲げたことになる。カトリックのオーストリア大公にして神聖ローマ帝国皇帝のフェルディナント2世はボヘミアの鎮圧を指示する。戦乱はボヘミアから西方のプファルツに広がる。これが『イサック』第1巻の冒頭、1620年の様相だ。
作者は空想の都市、城塞、人物を織り交ぜ、史実を左右に動かしながら、この宗教戦争を精密に描いていくのである。

・・・イサックは、師匠の仇である練蔵を追ってヨーロッパへやってくる。「ロレンツォ」の名前でカトリックのスペイン軍に参加している練蔵を討つため、イサックはプロテスタント側のハインリッヒ王子(架空の人物、フリードリヒ5世の弟という設定)と行動を共にしながら、戦いに身を投じていく・・・。先頃、古代中国の歴史マンガを原作とする映画「キングダム」が公開されたが、「イサック」も映画向きな感じのするマンガではある。でも舞台がヨーロッパだと、映画化のハードルは高いかな。しかしとにかく、三十年戦争をマンガにしちゃうっていうのはスゴイことだよ。

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2019年5月18日 (土)

「哲学対話」のチカラ

今週の日経新聞に掲載されたシリーズ形式の記事「キセキの高校」には感心した。とても大事なことに取り組んでいる人たちがいる、と感じた。5月16日付連載3回目の記事からメモする。

東京大教授の梶谷真司(52)は、受験偏差値では都立高で最低に近い大山高校(板橋区)で「哲学対話」が始まるきっかけをつくった。1つのテーマを決め、互いに問いと答えを繰り返すことで、生徒は気づいていない本来の力を取り戻す。

◎哲学対話のルール(大山高校の場合)
①なにを言ってもいい②人の言うことに否定的な態度をとらない③話を聞いているだけでもOK④質問しあう⑤本で知った知識・聴いた話ではなく、自分の経験で話す⑥まとめない⑦意見が変わってもOK⑧分からなくなってもよい

梶谷は2012年、ハワイの高校で哲学対話に出合った。十数人の生徒が輪になり目を輝かせて質問し、意見を言い合っていた。「こんなにも自由に語り合う場があるとは」と梶谷は衝撃を受けた。日本でも広める決意をし活動を始めた。小学校の教室、母親サークル、過疎の自治体など大学の外にどんどん出向いた。子供から大人まで参加者を広げた。
問い、語り合うことは「日常の前提から離れて自由になること」という信念を梶谷は持つようになる。15年ごろ、学校や教師の支援を手掛ける非営利団体の関係者から大山高を紹介された。哲学対話が始まって以来、大山高では公立大や難関私大への合格者が出るようになった。学校関係者は喜ぶが、梶谷は冷静だ。合格より、生徒が問い、語り、考え、自由になることが大切だからだ。

・・・あるテーマについて他人と問いかけ合い、考えることにより得た明確な認識を、自分の為すべき行動の具体化まで落とし込む。「哲学対話」の方法は、自分の生きる方向性を見出そうと模索する若い人たちへの効果が大きいと思われる。また、ビジネスにも応用できる感じがする。

哲学とはまさに日常の前提から離れる行いだ。つまり日常の当たり前を改めて問い直す営みだ。でも、あんまり哲学に深入りすると日常に戻ってこれなくなる恐れがある(苦笑)ので、適当なところで納得して日常に帰ってくるのが賢明かな。

自由についてふと思った。社会の中で自分の自由を確保するにはどうしたらよいのか。とりあえず自分が他人から大事にされるような人になる。そして自分も他人を大事にする。お互いがお互いを大事にすることが、結局は社会の中でみんなが自由に生きるための近道ではないか。とか。

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2019年5月11日 (土)

深井教授、著作に虚偽の不可解

(本日付日経新聞社会面より)
東洋英和女学院(東京・港)は10日、深井智朗院長(54)の著書などの内容に極めて悪質な捏造や盗用があり、同日付で院長と東洋英和女子学院大教授の職について懲戒解雇したと発表した。著書で取り上げた人物とその論文はいずれも実在せず、捏造と認定した。
同大の調査委員会によると、著書は2012年刊行の「ヴァイマールの聖なる政治的精神」(岩波書店)。神学者「カール・レーフラー」とその論文に触れているが、この人物の実在を裏付ける資料はなかった。
18年10月、キリスト教関係者向けの新聞に疑義を指摘する記事が掲載され、同大が調査委を設置した。ドイツ思想史などが専門の深井氏は16年4月に同大教授となり、17年10月から院長。「プロテスタンティズム」(中公新書)が18年の読売・吉野作造賞を受賞した。

・・・この件は昨秋、週刊誌ネタになっていたのは承知していたが、このたび公式に捏造が認定されたことになる。問題の書となった『ヴァイマールの~』だが、自分は何か面白そうだと思って買ったし、カルチャーセンター講座で深井先生ご本人を見ていたこともあり、頭も良く人柄もソフトな感じで神学ジャンルでは要チェックの先生だと思っていたから、今回の出来事については「なぜ?」という感想しか出てこない。

件の「カール・レーフラー」という人物については、『ヴァイマールの~』「第4章ニーチェは神学を救うのか」の中でこう述べられている。

神学者カール・レーフラーは、1924年に書かれた「今日の神学にとってのニーチェ」という論文の中で、ニーチェのキリスト教批判を分析した上で、(中略)ニーチェの批判によってカール・バルトの神学は消滅するという議論を展開している。

正直このニーチェと神学という逆説的な取り合わせに魅せられて第4章だけでも読むかと思って、この高価な本を買ったので、ここに虚偽の部分があるならば「参ったなあ」という感じしかしない。岩波書店の編集者は何をやっていたのだと思ったりもするけど、そもそもフェイクに手を染める必要なんか全くない才能豊かな先生であると思われるので、とにかく不可解というほかない。

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2019年5月 9日 (木)

歴史は変わる、昭和史も変わる

昭和史については、新しい実証研究の成果に基づく新しい解釈が生まれているにも関わらず、それらが人々の間に充分共有されているとはいえない――本日付日経新聞オピニオン面のコラム記事(昭和の教訓、生かす時代に)からメモする。

近年来の昭和史ブームのなか、たくさんの本が刊行され、読者を得ている。これ自体は歓迎すべきだが、筒井清忠・帝京大教授はこう指摘する。
「一般向けの昭和史本には最新の研究成果を踏まえず、過去の俗説や誤りがそのままになっている書物が氾濫している。このままでは複雑な過程をたどった昭和史への理解が深まらず、単純な歴史観が横行してしまう。危うい状況と言わざるを得ない」

では、どうすればよいのだろう。広がる読者の需要に応えようと、歴史研究を専門としないジャーナリストや作家、識者らが次々と参入し、昭和史本を刊行している。書き手のすそ野が広がるのは良いことだが、執筆にあたっては入念に最新の学説を洗い出し、反映する努力をさらに尽くす必要があるだろう。

状況を改めるうえで、歴史研究者が果たせる役割も大きい。そのひとつが、個々の専門領域から一歩踏み出し、一般の読者にもわかりやすい近現代の通史を、もっと手がけることだと思う。

・・・昭和史に限らず、新たな研究と解釈により、歴史の通説が変わっていくことは、例えば日本史教科書の内容が昭和と平成で違うということにも現れている。歴史の見方が変化していく中で、極端に言うとジャーナリズムの人は自分の推理も含めて不確かなことを書き散らし、アカデミズムの人は狭い専門の内に留まり確かなこと以外は語らない。最近も週刊ポスト誌上で井沢元彦氏と呉座勇一氏の「論争」があったりして、作家と学者のすれ違いは今に始まったことではないが、とにかく新しい学問的成果を分かりやすく一般人に伝える仕事を担う人材が、もっともっと必要かもしれない。

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2019年5月 8日 (水)

謎多き平将門の反乱

平将門と天慶の乱』(乃至政彦・著、講談社現代新書)を題材とした、堀井憲一郎のコラム記事(サイト「現代ビジネス」5月7日発信)から以下にメモする。

平将門はずいぶん古い時代の人である。武士の原型のような人ではあるけれど、武士として生まれて武士として育つ、という時代の人ではない。貴族時代の人である。

平将門のドラマは私は一回しか見たことがない。1976年のNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』である。加藤剛が将門を演じていた。まあ、時代が昔すぎて細かいことがわからないというのもあるが、日本史上、類のない反逆者である将門は、なかなかドラマ化されない。

平将門は桓武天皇の5世の孫である。朝廷がしっかり支配できていない遠国を、安定支配するよう現地にて努力している「辺境軍事貴族」という立場だ。将門は武士の棟梁を目指していたわけではない。彼が求めていたのは「辺境ながらも貴族」としてのしっかりした地位の保証であった。でも彼は無位無冠のままに終わる。

相続すべき土地や軍事機関などを叔父たちに奪われそうになったので、戦いはじめると鬼神のごとき働きをみせ、連戦連勝、名を馳せ、自分の土地を守りきる。戦さが重なり、京都の朝廷の出先機関を襲い、中央から派遣された国司を追い出し、関東一円を支配した。

将門は、自分の地元だけを治めようとしただけで、関東エリア全域を独立させ、別国家の樹立を考えてなぞいなかっただろう、という研究者もいる。でもどう考えたって、「おれたちは日本から独立して、おれたちだけの関東の王国を作る」という話のほうがロマンに満ちている。

・・・確かに平将門は昔の人だ。源頼朝の250年も前になる。関東の出来事だし、将門は何となく頼朝の先駆者かと思えたけど、将門は武士ではなく「軍事貴族」だというから、どうも違うみたいだ。結局、将門の反乱とは何だったのか、大昔のことだしよく分からないという感じ。

乃至本を読むだけでは当時のイメージがわかないので、大河ドラマ(総集編)のDVDも見た。昔の大河で自分が熱心に見たのは、将門ドラマの3年前の『国盗り物語』。あの頃の大河ドラマは演出に一貫性があったなと思う。

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2019年5月 4日 (土)

歌謡曲は偉大なのです

4月30日のNHKBS「桑田佳祐大衆音楽史ひとり紅白歌合戦」を見た。先の地上波放映時も見た番組だけど、面白いなあと思っていたので、この「再放送」も見た。

何しろ桑田さんの「ひとり紅白歌合戦」という企画が驚異的。人間ワザとは思えません。平成20年、25年と行われて、昨年平成30年の3回目でひとまず完結したという。番組は「ひとり紅白」で歌われた170曲以上の一部を紹介しつつ、歌謡曲、フォーク、ニューミュージック、Jポップの歴史の記憶をたどっていく。桑田さんとほぼ同年代の自分には、「シャボン玉ホリデー」の魅力や、クレイジー・キャッツやドリフターズの影響を語る部分も面白かった。以下に番組中の桑田発言から一部をメモします。

洋楽を聴くにつれて一周回ると、どうしても歌謡曲にたどり着く、という・・・洋楽並みの事をちゃんとやっているし、洋楽を聴いた耳だと理解できるし、歌謡曲は偉大じゃないか。自分の体の中ににしみこんでいる、血肉となっているんじゃないかと気づいて唖然とする。っていうか感動すらあるんですけども。それで「これを自分が表現したい」という風になりまして、「ひとり紅白」に行き着いたんだと思います。

「ひとり紅白」をやっていて、すごくいい体験になるな、勉強になるなっていうのは、ぼくら洋楽を経験して自分で楽器を覚えてアレンジをしたりっていう経験値の中で、はじめて50年近く前のグループサウンズの曲を歌うとね、「こんな宝物か」って思うぐらい、音楽の素晴らしい重要なエキスがすごいつまっている。単にいい曲っていうだけじゃなくて驚きもあるんですよね。

(フォークの流行について)あの当時、何か揶揄するような意見もあったじゃないですか。「四畳半フォーク」って言い方があって。そういう了見の狭い時代でもあったの。今思うと大きな勘違いでね。

(ユーミンの曲を歌ってみて)名曲っていうのは、もちろん聴いて良しだけど、歌ってもっていかれるっていうかね。歌という入れ物をお借りして、入れ物の中を自分の心が自由奔放に動き回れるっていうかね。大きな何か大事な器を与えてもらうような感じでね。

(昨年末の紅白歌合戦出演で)何かものすごく今後頑張れる気持ちにもなりましてね。ぼくらもよく悩むんですよ、いろいろ。「ホントにこれでいいんだろうか」とか。生きてるとクヨクヨするんだけど、「頑張ればなるようになるんじゃないかな」っていうのを、みなさんに以心伝心教えていただいたような気がしましてね・・・夢のような紅白でしたね。

・・・歌ってみて分かる歌謡曲の偉大さ。なるほどね。しかし桑田さんもクヨクヨ悩むのかと妙に安心する。と感じるのも我ながらヘンですが。

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2019年5月 1日 (水)

浩宮が天皇になりました。

今日は「令和」初日。新元号の始まりだ。「カジュアル改元」なんて言い方もされてるけど、10連休効果もあるし、30年前の平成の始まりに比べれば今回の方が世間の雰囲気は全然良い。昭和天皇崩御そして平成改元の時は重苦しくも慌ただしく、テレビ番組は「激動の昭和」一色となり、レンタルビデオ店が繁盛したっけ。次の改元もこんな感じがよろしいかと。上皇の譲位の決断に感謝しつつ、即位したばかりですが、新天皇にも同じような退位をお願いしたい。

ところで僕は、新天皇となった浩宮と同じ学年だ。昔々、僕が小学生だった頃、学級委員のテッちゃんが「何でアイツだけ特別扱いなんだよ~」とか言ってた。僕が浩宮をどうも好きになれないのは、テッちゃんのせいなんだな。(と、人のせいにしておく)

しかし、浩宮が天皇になる時は感慨があるんだろうな~と思っていたのだが、それ程でもないな。まあとにかく、これから浩宮が「日本国民統合の象徴」という役割をどう果たしていくか、お手並み拝見というところだな。

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2019年4月30日 (火)

平成という時代

平成とはどういう時代だったか。証券業界の人間としては、経済的に見て結局、バブル崩壊とデフレの克服、グローバル化の時代だったというほかない。つまり平成という時代の性格は、最初の10年間すなわち90年代に決まっていたと言える。現在デフレはおおよそ終了した気配はあるが、有効な成長戦略の実行も容易ではないという感じ。
政治的にも90年代初頭の冷戦の終わりから、大国の立ち位置の変化や新興国の台頭、テロの活発化などを背景に、日本も国際貢献や日米関係の再構築など従来とは次元の異なる対応を迫られた時代だった。今後も国際関係において日本は難しい舵取りを迫られるのだろう。
加えて地震や津波など自然災害、さらには原発事故など、重大な事故災害への対応も、国家レベルの課題として平成の時代に立ち現れた。これもまた新時代に引き継がれる課題だ。

日本が確固とした方針を持って、政治・経済共に新たな展開を図れるのか。それが新しい時代への期待と不安だ。

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2019年4月25日 (木)

哲学はロックなのである

哲学を語るコンサルタントとして知られる山口周氏。サイト「NewsPicks」4/16発信記事「ビジネスで武器になる哲学」から、氏の話を以下にメモする。

哲学者はロックンローラー。世の中に対して「それって違うんじゃない?」という批判的なまなざしを、常に提示し続けてきた人々です。

「自由はキツイですよ」と説いたのが、ドイツの哲学者フロムです。例えば、ナチスドイツで発生したファシズム。「自由」はもともと市民が頑張って手に入れた権利ですが、人々はそれに伴う孤独と重い責任に耐えられなくなり、こうした全体主義に傾倒するようになったと、フロムは言います。自由に耐え得る強い人とは、自分の力で考えることができる人です。自由になるとは「年収が高い方がいい」とか「学歴が高い方がいい」とか、こうあるべきという他の人の物差しからどんどん外れること。そんな中で、無規範に陥らずに、自分の規範でしっかり生きることができるのか。そういう強い人だけが、本当の意味で自由を謳歌することができるのです。

不良と優等生、世界を悪い方に導くのはどちらでしょうか。それは「無批判な優等生」と答えたのが、哲学者のハンナ・アーレントです。彼女はナチスドイツでユダヤ人虐殺計画において、大きな役割を果たしたアドルフ・アイヒマンについて本にまとめています。彼はナチス党で出世するために自分の任務を一生懸命こなした結果、恐ろしい犯罪を犯すに至った。つまり、悪とは「システムを無批判に受け入れること」なのだと、アーレントは分析しています。

人間には、アイデンティティに偏執するパラノ(パラノイア)型と、直感の赴くまま柔軟に生きるスキゾ型がいる。そう考えたのが、フランスの哲学者ドゥルーズです。パラノ型は時代や環境の変化に弱い。それに対して、スキゾ型はしなやかに時代の変化に対応していけます。ここはやばそうだと直感的に感じたら、さっさと逃げる。物事が目まぐるしく変化する現代では、逃げる勇気を持ったスキゾ型の生き方こそが必要となってくると思います。

「無批判な優等生が世界を悪くする」というお話をしましたが、哲学者は「真面目な不良」だと言えます。おかしなルールには従わないけれど、人が幸せに生きるということにかけては真面目な人々なのです。ビジネスの世界で活躍しながらも、優等生にならず「不良の魂」は失わない。そんなしなやかな精神が、今後はさらに求められてゆくでしょう。

・・・自分にとっては「スキゾ」と「パラノ」といえば浅田彰なんだよなあ。「逃走論」という本もあったっけ。とりあえず社会システムに従いつつも、時に批判し、逃げるというやり方で反抗する。自分の規範を持って反抗する、それが哲学すなわちロック、だと思う。

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