2018年6月 4日 (月)

苗木城に行く

JR東海のさわやかウォーキングで、数年前から苗木城コースを開催している。のは知っていたのだが、足を悪くすると山城歩きも決心が要るもので、見送りを続けていた。が、とうとう昨日3日開催のさわやかウォーキングに参加して、苗木城を訪ねた。

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朝9時過ぎに中津川駅を出発して、木曽川を渡り、山道を歩いて苗木城の本丸に辿り着いたのが10時半頃。上の写真は天守展望台から見た木曽川、恵那山。下の写真は、城跡と苗木遠山史料館を結ぶ道の途中にある「撮影スポット」から取った天守展望台付近。

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史料館に立ち寄った後、帰りは車道をゆるゆる下るコース。再び木曽川を渡り市街地に戻って、旧中山道中津川宿も歩く。コース距離は約13km。ゴールする手前で食事も取ったりして、結局自分が駅に戻ったのは午後2時過ぎ。何だかんだで5時間を費やしたのであった。とにもかくにも、苗木城行ったどー!という感じである。

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2018年5月19日 (土)

藤井七段誕生、高速の昇段

高校生の天才将棋棋士、藤井聡太六段が18日の竜王戦の対局で勝利し、規定により七段に昇段した。そもそもデビューが昨年春だったから、一年余りで四段から七段になっちゃったわけで、まさに天才だから可能な驚異的スピード昇段というほかない。
 
しかし自分のような将棋のオールドファンから見ると、昔は順位戦で昇級昇段、どんなに早くても一年ごとに一段上がるイメージしか無かったのに、最近は昇段の条件も、何だかんだといろいろあるのだな、という感じではある。まあいろいろあっても、実際に適用されるケースはそんなには出てこないんだろうけど。
 
とはいえ、さすがに八段昇段の条件となると、竜王位獲得、順位戦A級昇級、七段昇段後公式戦190勝、の3つしかないとのこと。
オールドファンはどうしても、順位戦で勝って昇段するのが本当の昇段だよな、と思ってしまうので、天才の藤井君には毎年昇級でA級八段になることを期待します。
しかし藤井と言えば聡太七段となると、藤井猛九段の影が薄くなるのではないかと心配してしまいますね。

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2018年5月 6日 (日)

「パープル・ファミリー」の活躍

正直、グレン・ヒューズが「クラシック・ディープパープル・ライブ」ツアーなるものを去年の9月からやっているというのを全く知らなくて、久しぶりにプライベート盤ストアのサイトを眺めた時に、ライブ盤が商品リストにアップされているのを見て「へぇ~」となった次第。何しろ今年になってから、1月にホワイトスネイクの「パープル・ツアー」ライブ盤、4月はリッチーブラックモアズ・レインボーの2017年イギリス公演のライブ盤(いずれも公式盤)が相次いで出て、さらにグレンのライブということで、パープル・ファミリー(死語)が活躍してるな~という感じになったものだから、グレンのチリ・サンティアゴ公演(今年4月)のプライベート盤も購入して聴いてみた。紫の炎や嵐の使者など第3期と第4期の曲はもちろん、ハイウェイスター、スモークオンザウォーターもセットリストに入れる大サービスぶり。グレン健在を示し、バンドメンバーもどういう人か知らないけど、かなりの凄腕という感じ。おそらくいずれは公式盤も出るのでしょう。
 
既に出ている話だけど、現在活動しているリッチーのレインボーに、グレンも参加する予定だったらしい。しかし連絡に人を介していたものだから話の行き違いがあったらしくて、結局実現しなかったと。何しろメインボーカリスト(ロニー・ロメロ)がいるという一番肝心な話が伝わってなかったのだから、それを分かっていれば、シンガーとしての自負心も人一倍強いであろうグレンが、最初からバンド参加の誘いを受け入れるはずもなかっただろう。(苦笑)
とはいえ、もしグレンが参加していれば、それはそれでレインボーという名前のバンドとしてはちょっと微妙な感じもあったと思われるので、まあこれで良かったんじゃないの、と思ってしまう。(苦笑)
 
リッチーは飛行機に長時間乗るのは嫌だということで来日は期待薄だが、グレンの来日は期待してもいいのかも。来たら見てみたいという気持ちはある。
 
今ではさすがに本家ディープパープルの新作を買うということはないのだが、それにしてもディープパープルの音楽に40年以上も付き合うとは思っていなかったな。何しろ70~80年代のロックをやってた当人たちが、今も現役でやってるわけだから、何だかすごいことだと思うよ。

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2018年4月30日 (月)

「ウ・パドリーノ」

「“伝説のマフィア”ラッキー・ルチアーノの末裔が日本にいた」という帯の言葉に惹かれて、『ゴッドファーザーの血』(マリオ・ルチアーノ著、双葉社)を書店で手に取った。
 
何しろラッキー・ルチアーノといえば、マフィアのビッグネームである。1931年のニューヨークにおけるマッセリア一家とマランツァーノ一家の抗争の中から、最終的にボスの中のボスとしてのし上がり、マフィア組織の近代化を成し遂げたラッキー・ルチアーノ。その伝説のギャングの血筋をひく人物が日本の裏社会で生きていたというだけでも驚きなのに、現在は東京・茅場町にあるイタリアン・レストランの経営者であるという話を目にして、また驚いた。
 
レストランの名前は「ウ・パドリーノ」。実は名前を覚えていなかったのだが、何しろ自分の前の勤務地が茅場町を最寄り駅とする新川だったから、もしかしてあそこ?と思い出す店があったので、調べてみるとやはり一回だけランチで入った覚えのある店だった。地下鉄の駅から永代通りを東に歩いて霊岸橋を渡り、すぐ左に曲がったところにあるお店である。いや~あそこそういう店なんだ、何だかすごいとしか言い様がない。
 
マリオ・ルチアーノ氏は1964年シチリア生まれ。23歳の時に来日し、東京や神戸など、既に30年以上日本に住んでいる。かつてはいわゆる「経済ヤクザ」として長い間活動してきたが、今では裏社会関係の仕事からは足を洗い、レストラン経営に専念しているとのこと。
 
この本の前半では、ルチアーノ氏が日本に来るまでの若い頃に、ニューヨーク、パキスタンのカラチ、フィリピンのマニラで経験した出来事が語られる。日本に来てからは、山口組はじめ裏社会系の人々との交流の話が中心となっているが、時に生命の危険に晒されるなど、それこそドラマか映画のような、常人には想像もできない人生だという感想しか出てこない。

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2018年4月29日 (日)

会津征伐と直江状

天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(乃至政彦、高橋陽介の共著、河出書房新社)の「第5章 会津征伐と直江状」の要点などを以下にメモする。

 

(会津征伐に至る経緯の通説)

慶長5年(16004月、謀反の疑いをかけられた会津の上杉景勝は、徳川家康からの上洛の要請に対し、家臣の直江兼続に長文の返信をしたためさせた。それは「会津の政治に後ろめたいことは何もない。逆心など謂れのないことだ。無茶なことばかりを言い立てるのは、何か悪巧みがあるのではないか」と挑発する内容だった。世にいう「直江状」である。書状を手にした家康は怒り心頭に発し、諸大名に「会津征伐」の総動員をかけた。

 

(乃至氏の「直江状」検証の要点)

いわゆる「直江状」は、西笑承兌(さいしょうじょうたい)和尚の書状に対する返書である。写しのみが現存し、原本がないため、真贋論争が続いてきた。乃至氏は「直江状は承兌書状の内容に一々返答したが、どこも噛み合っていない」(渡邊大門氏)という説に同意する。そして、「実際に兼続が書き送った返書と、直江状を別物として考える」(水野伍貴氏)という提言に従うべきだとする。というのは、そもそも西笑和尚の書状は私的なものである。つまり承兌と兼続の私信往還と、家康側と上杉側との間の公使往還とはまったく別物なのだ。直江状は両者を混同した創作物だと考えられる。要するに兼続は景勝と家康の交渉に一切関与していないのだ、と乃至氏は結論づける。

 

(上杉景勝の本意とは)

さらに乃至氏は、景勝の「逆心」も真実だったと見ている。景勝は事前に誰とも共謀することなく、単独で開戦準備を進めていた。景勝は自ら動乱を呼ぶことによって、天下に公儀のありようを問おうとしたのである。もともと景勝は豊臣秀吉死去以来の上方の政争に消極的で、くだらない派閥争いで安定しない公儀に、不快感を募らせていたのだろう。行き詰まった上方の政情を打破することができれば、それで良かったのである。

以上から、会津征伐は通説のいうような家康の野望の現われではなく、景勝の逆心による関東の争乱勃発を防ぐため、公儀による征伐として動き始めた戦争なのである。

 

・・・自分は、まず高橋氏担当部分(関ヶ原合戦)を目当てに同書を買ったのだが、乃至氏担当部分(関ヶ原に至る政治プロセス)も読んでみると非常に面白い(特に直江状の解説)と思ったので、メモさせてもらった次第です。

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2018年4月28日 (土)

関ヶ原(山中・藤下)合戦の経緯

天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(乃至政彦、高橋陽介の共著、河出書房新社)の「第15章 西軍降伏後に起きた合戦」を要約してみる。
 
慶長5年(1600)9月14日、徳川家康の軍勢が美濃赤坂に着陣。石田三成ら西軍の立て籠もる大柿(大垣)の城から北に一里(約4km)ほどの場所である。また同日、小早川秀秋勢が松尾山の西軍勢力を排除して当地を占拠(これは高橋氏によれば、事前に家康方と示し合わせての行動である)。松尾山は大柿から四里(約16km)西の関ヶ原にある。東軍に寝返った小早川を討つべく、14日の夜、大柿にいた石田三成、宇喜多秀家、小西行長、島津惟新(義弘)の4部隊は城を出て関ヶ原に向かった。
 
大柿から関ヶ原までの途中にある南宮山には、毛利勢が布陣していた。関ヶ原方面に移動する西軍の行動を撤退と捉えた毛利家の筆頭家老・吉川広家は、既に東西両軍の勝負がついたと判断。東軍と和談交渉を行うことを独断で決意し、使者を送った。そして、東軍の井伊直政・本多忠勝らと吉川広家らは起請文をとりかわし、広家側は人質を差し出した。高橋氏は、これにより東軍と西軍の総和談は成立、それは事実上の西軍の降参を意味する、という。
 
9月15日の未明、西軍は松尾山の北、山中村・藤下村付近に展開した。西から島津、宇喜多・小西・石田、一番東側に大谷吉継である。同日の早朝、東軍の先手である福島正則・黒田長政らの部隊が、西軍陣地に攻め掛かってきた。
西軍で最初に戦い、最初に崩壊したのは大谷吉継の部隊である。吉継は、西軍陣地のいちばん東側にやや離れて布陣していた。東軍先手衆の攻撃を六、七度撃退したが、松尾山からおりてきた秀秋の部隊に側面を攻撃され、崩壊した。さらに東軍先手衆は宇喜多勢、石田勢を潰走させ、島津の陣地への攻撃を開始した。島津勢はそれらの部隊の真ん中を切り開いて東へ向かって撤退した。
こうして関ヶ原合戦は終わった。
 
・・・関ヶ原合戦通説の見直しにおいては、西軍の移動(大垣城から関ヶ原)の理由が、一つの焦点だと思われる。通説では、西進する東軍を関ヶ原で迎え撃つためとされていた。これに対し高橋説は上記のように、小早川陣攻撃のためとする。また、白峰旬・別府大学教授の説によれば、家康軍到着により圧迫を受ける南宮山の毛利勢を、バックアップする体制に立て直すためである(『歴史群像』2017年10月号所収の論文)。しかしどちらにせよ、吉川広家の主導による和睦成立、すなわち毛利の事実上の降伏により、東軍が何の障害もなく西進し関ヶ原に進出できたのは、山中・藤下に布陣した西軍にとって想定外の事態であったということになる。これが短時間の戦闘で西軍が崩壊した一因のようだ。

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2018年4月27日 (金)

雑誌「angle」の頃、40年前の東京

『あのころangle』という雑誌が出ていることを教えてくれたのは、今月24日付の日経新聞コラム「春秋」。以下に要約的にメモしてみる。
 
文字のびっしり詰まった精密な手書き地図と、とことん歩いて得た情報。1977年に主婦と生活社が創刊した雑誌「angle」が消えたのは85年、バブルが始まる時期だ。むさ苦しい若者が減り、おしゃれな場所が増えていった。そんな世の流れと無関係ではなかったかもしれない。

休刊から30年あまり。版元のシニア編集者らが集まって、79年刊行の別冊「街と地図の大特集」を復刻させた。かつて愛読者の学生だったり、駆け出し社員だったりした面々もすでに還暦前後である。平成も終わりが近づくなかで、昭和の東京とそれを伝えた媒体の息づかいを記録にとどめようと企画がまとまったという。
 
「この雑誌は『面』としての街の魅力にこだわっていた」と復刻に携わった森本泉(60)さんは言う。何でも検索のネット時代が見失った、探索の醍醐味がそこにはある。
 
しばし復刻版を眺めれば、池袋をブクロ、吉祥寺をジョージなどとしきりに愛称で呼んでいる。気恥ずかしさを覚えつつ、人間の匂いのした街を思う。
 
・・・「angle」はまさに、「東京」を「読む」タウンガイドだったと言える。思えば「街と地図の大特集」が出た79年、僕は「ジョージ」をうろつく20歳の大学生だった。あれから40年近い時が流れたのだ――といっても実はそれ程の感慨はない。あるのは、とまどいにも似た薄い驚きの感覚というか。むしろ「angle」復刻版という媒体を目の前にすることによって、自分は確かに40年前の東京にいたのだ、という実感を与えられているような気がする。
 
それはさておき、今の東京はどうもおしゃれになりすぎている感もある。歩いていて何となく疲れるような。それこそ自分の年令のせいかもしれないが。でも昭和の東京には、楽しい人、つまんない人、いろんな人の思いをそのまま受け止めてくれる、そんな街の温もりがあったのかもしれない。などと思ったりする。

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2018年4月 7日 (土)

『歴史と戦争』

歴史と戦争』(幻冬舎新書)の著者は半藤一利氏。昭和5年生まれ、いわゆる昭和ヒトケタ世代である。私事めいたことを記すと、自分の親と同年代の人である。なので自分にとっては、この本を読むことは親世代の言葉を聞くということに他ならない。昭和ヒトケタ世代は、戦時中の少年少女として空襲や疎開を経験し、戦後は価値観が全くひっくり返った社会を生きた人々である。自分たちの親世代の経験と考え方を理解すること、その価値観を時々思い起こして今の世の中を見てみることが、昭和ヒトケタの親を持つ自分たちの義務のような感覚がある。

 

東京・向島生まれの著者は昭和20年3月10日の東京大空襲を経験している。空襲の後の焼死体がいくつも転がる焼け跡に立った著者は、これからは「絶対」という言葉を使うまい、と心に誓う。「絶対に正義は勝つ。絶対に日本は正しい。絶対に日本は負けない。絶対にわが家は焼けない。絶対に焼夷弾は消せる。絶対に俺は人を殺さない。絶対に・・・・・・と、どのくらいまわりに絶対があり、その絶対を信じていたことか。それが虚しい、自分勝手な信念であることかを、このあっけらかんとした焼け跡が思いしらせてくれた」。

その東京大空襲を指揮したルメイ将軍は戦後、日本政府から勲章を授与されている。航空自衛隊の育成に功績あり、との理由だ。この不条理な事実を毎年3月になると思い出す著者は、「われながら執念深いことと思うが、こればかりはこの世をオサラバするまで永遠に思い起こすことになる」と語る。当然の感情だと思う。時に政治は戦争よりも不条理である。

 

そして「あとがき」には「本書の結論」として、以下の言葉がある。

「わたくしを含めて戦時下に生をうけた日本人はだれもが一生をフィクションのなかで生きてきたといえるのではなかろうか。万世一系の天皇は神であり、日本民族は世界一優秀であり、この国の使命は世界史を新しく書きかえることにあった。日本軍は無敵であり、天にまします神はかならず大日本帝国を救い給うのである。このゆるぎないフィクションの上に、いくつもの小さなフィクションを重ねてみたところで、それを虚構とは考えられないのではなかったか。そんな日本をもう一度つくってはいけない」。

 

「国家総動員法」「大政翼賛会」「大本営発表」「戦陣訓」「国体護持」「一億総特攻」・・・この本に出てくる戦時中の言葉を拾っていくと、息苦しい時代がありありと感じられてくる。これらの言葉が重くのしかかってくる生活、その中で日々を送ることが自分の親世代の少年少女時代の現実だった。この戦時を支配したフィクションが将来、同じ姿で現われることはさすがに無いだろうが、国家が国民の生活と生命を危機に陥れるフィクションを、別の形で生み出す可能性が全く無いとは言い切れない。そのような可能性を考える時に、著者を始めとする昭和ヒトケタ世代の経験と思考を思い起こすことが、強く求められるのだと思う。

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2018年3月31日 (土)

「最後の晩餐」何にする?

本日付日経新聞プラス1(土曜版)記事「食の履歴書」から、タレントの関根勤が希望する「最後の晩餐」をメモする。
 
アジの開きか塩ジャケにのりやみそ汁がついた、旅館で出てくるような朝食がいいかな。実家でよく出てきたわけではないけれど、幼かったころを思い出させてくれる、日本文化の原点のような気がする。青い静かな海が一望できる場所で食べてみたいですね。

・・・「最後の晩餐」は、有名人インタビュー質問のネタの一つという感じで、いろんな人のいろんな意見があるんだろうけど、自分と同じ意見の有名人を見たのは初めてかも知れない。
思うに「最後の晩餐」は、特別なものよりは当たり前のものの方がいい。となれば、やっぱりニッポンの朝ごはんでしょう。焼き魚に海苔、そして卵かけごはんだな。味噌汁は豆腐かな。とにかく、関根さんに同感です。

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2018年3月30日 (金)

『陰謀の日本中世史』

本能寺の変には黒幕がいた、関ヶ原合戦は徳川家康の策略だった――など、日本中世史において語られる陰謀論の数々。ベストセラー『応仁の乱』の著者が、最新の研究を援用しつつ、これらの陰謀論を批判的に検討し、その基本的パターンを明らかにする・・・『陰謀の日本中世史』(呉座勇一・著、角川新書)を読んで、学んだり考えたりのまとめ。

 

この本では源頼朝、執権北条家、足利尊氏、日野富子など、日本史上の名だたる人物に係わる陰謀論を取り上げて批判的検討を行っている。なかでも「本能寺の変・黒幕説」は、陰謀論の「真打ち」として扱われているようである。ただ本書でも言及されているように、鈴木眞哉氏と藤本正行氏の共著『信長は謀略で殺されたのか』(2006)の批判以降、黒幕説は下火になったという印象がある。現在では本能寺の変の原因として、織田信長の四国政策転換との関連を強調する説が有力になってきていることもあり、今ここで改めて、新たに登場した陰謀論も含めて本能寺の変・黒幕説を批判することに、正直それほど意義があるようには見えない。おそらくこの本の主眼は、個々の陰謀論を論破すること自体にあるのではなく、論破の過程を通して歴史の正しい見方を提示することにあるのだと思う。著者も「あとがき」でこう述べている。「本書を通じて歴史学の思考法について理解を深めていただければ、著者として望外の幸せである」。

 

歴史を正しく見るということは、もちろん歴史を分かりやすく見るということと同じではない。しかし人間はついつい分かりやすさを求めてしまう。そこに、陰謀論が人々の心を捉える素地がある。陰謀論は因果関係が単純明快だから分かりやすい。そしてなぜ因果関係が単純明快なのかといえば、陰謀論は「結果」から組み立てられるからである。我々は歴史の結果を知っている。源頼朝は弟の義経を滅ぼし、足利尊氏は鎌倉幕府を倒し、徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利した。すべては最終ゴールを目指す勝利者によりコントロールされていた、という前提から、陰謀論は歴史の出来事を見てしまう。その結果論的なストーリーは、確かに分かりやすいとは言える。しかし繰り返しになるが、分かりやすい=正しいではない。

 

歴史を正しく理解しようとする時、余りにも分かりやすい話は疑ってかからなければならない。歴史の結果を知っている我々自身の立場を離れて、当時の史料に虚心坦懐に向き合い、当時の人々の置かれた状況を想像する。いつの時代であろうと、誰もが先の見えない中で複雑な現実に向き合って生きていたことを念頭に置いて考える。歴史の出来事を理解する時には、そんなニュートラルでバイアスのかからない態度が肝心なんだろうと思う。

 

この本の「終章」では、陰謀論と疑似科学の類似性が指摘されている。疑似科学は、科学的な装いを備えつつ、実際には科学的根拠を有さない理論を指す。歴史学は史料の批判的検討を根拠にした科学であり、史料に基づかない、あるいは史料の恣意的解釈に基づく陰謀論は、疑似科学として退けられることになる。この本は陰謀論を扱いながら、歴史の正しい見方というか、歴史学的な考え方とはどういうものか、改めて教えてくれる本である。

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